色即是空
伽耶山版「般若心経」

色即是空・空即是色によせて

 

ゼロ」の概念はインドで生まれた。インドでは「シューニャ(sunya)」と称し、元来は「空(から)」という意味をもつ。それがやがてアラビア商人の交易とともにヨーロッパに伝えられ、またスペインほかで展開するアラビア数学の普及を経て、最終的に英語の「zero」やドイツ語の「Null」で表記されるようになった。こうしてゼロは、インドに始まる「位取り記数法」とともに、ヨーロッパ世界になくてはならない存在となったのである。

 ところで、シューニャを中心思想に据えた経典に『般若心経』がある。23世紀インドの仏教僧ナーガールジュナ (龍樹)の『中論』に起因する『般若心経』には、「色即是空」「空即是色」という経文がある。「空(くう)」は数字の「0(ゼロ)」のことで、「色(しき、rupa)」とは「実体、物質、現象、有情」等々のことである。「空」とは、何も詰まっていない場、空間。すべての始まり、根原を境界領域にすえている。これから有がはじまる極み、というところである。わけのわからないモノとしての混沌とはちがい、わけのわからないモノさえも存在しない。あるいは、わけがわからなかろうが、いわゆるモノ=実体を前提した上で、これと相関関係にある非実体である。その概念・意味は、近代ヨーロッパ語では、すべての始まり(基点=0)、ということでは継承されたが、実体・実数に支えられ、それによって意味づけなされる傾向を強めた。「ゼロ」はその意味で定着した。しかし本来、インドからアラビアに展開した「空(くう)」「0(ゼロ)」は、逆に実体・実数を支え、これに意味づけをなす位置にあった。あるいは相互に意味づけしあう位置にあったのである。ちなみに、「シューニャ(sunya)」は東アジアにも伝えられ、中国語の「零(ling)」で表記されることとなった。

 「シューニャ」はヨーロッパに伝えられて「zero(英)、Null(独)、zero(仏)」などと綴られた。中国では「零」と書かれた。「零」は今日の日本では、日常語として、零点、零時、零下、零細、零落などの使用例があり、何もない、始まり、内容に乏しい、等の意味を表現する。それとは別に、ゼロは宗教上では「空」の概念を、数学上では「ゼロ(0)」の概念を示す重要なタームである。日本の学校教育においてゼロは自然数に含めず、正でも負でもない実数としている。それはまさしく、ゼロが正と負の座標軸の基点をなしていることの証であろう。実数の始まり(基点=0)ではあるが実数に支えられて意味をもつシューニャは、欧語ゼロからとって「零」と訳されることとなった。それに対して、実体・実数を支え、これに意味づけをなす位置にあった、あるいは相互に意味づけしあう位置にあったシューニャは欧語からでなく漢語からとって「空(くう)」と訳されて今日に至っている。

★参考:石塚正英『身体知と感性知―アンサンブル』社会評論社、2014年、第8章の五「ゼロの歴史知的概念」、189頁以降。